東松浦半島の最北端の波戸岬から北へ3,5キロの玄界灘に浮かぶ加唐島。周囲14,6キロ、
面積2,83キロ、人口120人(最盛期には556人)ほどの島です。春は椿、夏はユウスゲ
の咲く島で釣り客で賑わっています。
ここは古代中国の魏の人が玄界灘をへだて「末盧国」と呼んだように大陸との交通の窓口であ
りました。
島の地名の起こりにも「加羅」「加韓」「韓島」等の地名が古い文書に、そしてオビヤ、エヌ
オ「胞衣」の鼻、オンス、メンス等のカタカナ語からも朝鮮や大陸との交易を推測することが出
来ます。
この島には新羅遠征の途中、応神天皇を身ごもりオビヤ浦にて神功皇后が着帯式を行った伝説
や日本の最初の正史「日本書紀」に語り継ぐ武寧王伝説が残る島です。この武寧王の誕生伝説は
「島の宝100選」(国土交通省選定)に選ばれています。
「日本書紀」雄略天皇5(461)年4月の条に
「6月の丙戌の朔に、孕める婦。果たして加須利の君の言の如く、筑紫の各羅島にして児を生め
り。よりて此の児を名付けて嶋君と日ふ。(中略)これを武寧王とす。百済人この島を呼びて主嶋
(ニリムセマ)と日う。
と記述が残る。
わかりやすく言いますと、話は1550年前、朝鮮の三国時代に遡ります。日本は古墳時代。ヤマ
ト政権と蜜月関係にあつた朝鮮の百済との交流の時、のちに百済25代の王となり善政を敷いて日
本の飛鳥文化の形成に大きな関わりを持った王の誕生秘話です。
ところが今から34年前、1971年、鎮西町(現唐津市)加唐島を含め東アジア世界を震撼させる
出来事が発生しました。それは朝鮮半島の百済、韓国公州市の宋山里古墳群から武寧王陵が発見
され、出土した墓誌石によって『日本書記』に見える百済斯麻王(のちの武寧王)がこの
加唐島で誕生(461年)したとの記述が裏付けられたためです。加えて王陵から出土した3,000点
に及ぶ遺物や副葬品の中身の凄さと日本との関わりに皆が驚愕しました。これが物語の始まりで
あります。
この墓誌石に次の記録があります。
「寧東大将軍 百済斯麻王 62歳 癸卯年5月丙戊で7日壬申崩 至
乙巳癸酉朔 12日甲申 安厝登冠大墓 立志如佐。」
とあり、この生誕に次ぐ崩御の記録が東アジアを震撼させたのです。併せてそれはこれまでの
ヤマト政権を中心の物差しでは世界の歴史は測れなくなり、東アジア世界の歴史の物差しを大
きく変えるざるを得ない出来事の発生であったのです。
加唐島ではこの歴史的事実を地域起こしにと『百済武寧王生誕地記念碑』の建立を計画し、こ
れをシンボルに日韓交流を進めていきました。
振り返りますと、16年前の百済武寧王陵の玄室での僧侶を伴い供養に始まり、武寧王交流鎮西
町実行委員会(2015年名称変更)を立ち上げ加唐島での生誕祭の開催、韓国での百済文化祭の参
加、子供たちの相互ホームステイを含め、交流が始まりました。そして手始めに二十数年前から
の韓国慶北大学校の文暻鉉教授や韓日伝統文化協会長との交わりは、武寧王の加唐島生誕説を裏
付け韓国歴史学会での「武寧王の出自」の発表に繋がることになりました。とはいえ皆さんご承
知のとおり日韓関係はただならぬ関係にありました。肥前名護屋城の朝鮮との歴史、加唐島の人
にとっても戦後間もないイワシ漁の最盛期での韓国の日本漁船拿捕事件は頭から忘れられない出
来事であり、日韓両国民の心情は心穏やかならざるものがありました。 そこで日韓両国民の反
応を見るため国際シンポを開催しましたが、しばし針の筵の上に座らせられた心地でありました。
しかし、ここに幸福の女神が現われました。それは天皇誕生日の「天皇家と百済のゆかり発言」
であり、又日韓のワールドサッカーの共同開催でありました。結果は10年ほど前、駐福岡大韓民
国総領事館元総領事が佐賀新聞の1面に書いた[加唐島は日韓をつなぐ一番の地域資源]との論
壇記事がすべてを物語ります。
そして2006年6月に我々は韓国・公州市民との民間交流協定を締結し、日韓の交流のシンボル
として日韓の市民による資金で生誕地記念碑を建立し、除幕にこぎつけました。この記念碑は、
武寧王陵のアーチ型と塼壁のデザインから取り、石は百済の古都・益山の石2個を使い組み立て、
日本と韓国、唐津と公州の友好と百済文化の継承を象徴したものです。また武寧王の子、聖明王
は日本に仏教を伝えたことで知られており、日本が仏教で長らく鎮護国家をつくつたことは周知
のところです。
まさにそのものずばり、日韓をつなぐ素材となった加唐島を中心に、武寧王生誕祭、韓国3大
文化祭の1つ百済文化祭参加、日韓文化交流の夕べ等の相互交流をメインに交流の輪は年々大き
く広がっています。今年、韓国のこの百済地区が世界遺産登録され、また武寧王の父昆支の住ん
だとされる大阪の百舌鳥群・古市古墳群も日本の世界遺産の登録の候補になっています。福
岡の「神宿る島」、宗像の「沖ノ島」も今年の日本の世界遺産候補に、又名護屋城跡を結ぶ唐津
オルレを日韓の人々が手をつなぎあい歩くなど、「遥かなる海上の道」が一歩一歩確実に東アジ
ア世界への階段を登り、今まさに1500前の往時の世界が甦ろうとしています。
市民の盛り上がりは、今宵夜空には唐津、佐用姫、武寧王の3つの星が我々を照らしてくれて
います、また日韓のイベントには唐津市民が作詞の「ニリムセマ」【思い出の加唐島】が高らか
に歌い上げられています。
ここで私と武寧王の関わりについて一言。今から66年前、加唐小学生3年の時、島の古老の言
葉、「この島は朝鮮の偉い王様の生まれらした島バイ、」が脳裏を離れずついそのままに今日に。
日韓トンネルの計画もちらほら。まずは来年6月の15周年生誕祭の大成功を目指しています。
今年の14回生誕祭において、これまでの唐津と公州に加え大阪、ソウルも入れ民間交流協定を拡
大しましたし、武寧王時代の[南京―公州・ソウルー唐津―大阪」をつなぐ古代アジアの地域間交
流の拡大が目標です。皆で手に手を取り合い、これらの目標に向かい頑張っていきます。皆さん
のご指導とご支援お願いします。
平成27年12月 まつろ・百済武寧王国際ネットワーク協議会 熊本 典宏
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